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江戸焼うなぎ 菱富の歴史

菱富

『菱富』はエレベーターと風呂付の料亭だった

石畳を察そうと駆け抜ける馬車、どこからか聞こえてくる「さおだけぇ~」の声。品格があり、情緒にあふれている。1954年(昭和29年)、嫁いで間もなかった4代目店主が目にした宗右衛門町の光景です。

明治中期に始まった料亭「菱富」が、道頓堀川北側の現在地へ移ったのは1928年(昭和3年)。戦前の宗右衛門町には、大和屋さんなどの老舗料亭が何軒もあったそうです。

店は木造3階建で、エレベーター付き。地下にはお風呂もありました。お客様には汗を流してサッパリしていただいてから芸妓さんを呼び、料理を楽しんで頂く。ゆったりと時を過ごす、ぜいたくな空間だったようです。

おなじみさんは、船場の旦那衆。うなぎを食べて商売を「うなぎのぼり」にと、縁起を担ぐ方が多かったようで。店の一角に、お付きの方が待つ「供待ち」と呼ぶ部屋もありました。

戦後になり、宗右衛門町は随分と変わりました。接待でご利用いただくお客様が増え一般的にも開かれた店が増える一方、宗右衛門町はネオンきらめく歓楽街へと変わっていきました。

品格と情緒があってこその宗右衛門町。
2011年にはこれまでコンクリートだった宗右衛門町通りが石畳の路地となり、裏手の道頓堀川には遊歩道「リバーウォーク」ができました。宗右衛門町らしい、しっとりしたにぎわいが戻ってきております。

『菱富』の江戸焼うなぎ

大阪で鰻と言えば、「まむし(鰻飯)」。腹を割いて蒸さずに焼く。初代の早川兼三郎は「どうせやるなら、珍しい江戸焼きを」と、東京から蒲焼職人を呼び寄せたことが始まりです。いまではふっくらと蒸した江戸焼きの鰻を大阪の皆さまにご賞味いただいております。

江戸焼きは背を割いて半分に切るので、2切れで1串。白焼きしてからいったん蒸し、タレをつけてもう一度焼く。柔らかくて、さっぱりとした味わいが特徴です。でも、大阪人は表面がパリっとして、少し焦げているぐらい香ばしい鰻がお好み。初めて召し上がるお客様には、昔から「何か、頼りなり鰻やな」言われてきました。

大阪の人間は言葉は厳しくても、繰り返し足を運んでいただける。味に寛容というか、違いを認める度量が大阪人にはある。「大阪も江戸もない、うまいもんはうまい」と。ありがたいことです。

 

『菱富』のタレは戦時中に疎開させていた!?

タレは命です。戦時中、店は空中で全焼しましたが、タレだけは疎開させていて無事でした。100年以上変わらぬ味を受け継いでいます。

原料は、みりんと濃口のたまり醤油。防腐剤などの混ぜものは一切不使用。大阪焼きに比べると、甘くなくさっぱりと最後まで鰻を頂けるようにしております。

まず、みりんのアルコール分をしっかり火で飛ばすから、甘さが残らない。立ち上がる炎はその証です。たまり醤油を加えて、焦げないようにじっくり炊き込む。新しいタレは古いタレが入った紅鉢に追い足していきます。

ただ、ここまでは下ごしらえみたいなもの。紅鉢に白焼きを1串ずつ浸すと、鰻の脂や香ばしさがタレに移る。これが大事なうまみの素。浸した鰻の数だけうまみが増し、店が繁盛するほどタレに磨きがかかります。

 

『菱富』夏だけではない鰻のおいしさ

石麻呂に、吾もの申す夏やせに よしといふ物 そむなぎ取り食せ

『万葉集』の大伴家持の歌にあるように、奈良時代の昔から夏バテ対策には鰻が一番と考えられていたようです。
土用の丑は立春、立夏、立秋、立冬と四季が始まりを継げる直前にやってきます。夏だけでなく、ぜひ四季折々の鰻を味わってみてください。

 

『菱富』暖簾を上げる続ける覚悟

最近はインバウンドのお客様が増え、大阪ミナミの街もおかげさまで賑わいを取り戻しました。しかし、老舗の料亭は無くなる一方。

当店にも危機がありました。風情ある黒塀の木造建築から5階建てのビルに改築を決意。竣工を目前にした1996年に3代目の店主が急逝しました。妻である女将が4代目の店主として娘2人となんとか店を継続させ、今では3代目店主の孫にあたる5代目が菱富をしょって日々研鑽しております。

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